遠い夏の日

アメ隊長

2011年08月08日 18:04

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お隣のご一家が車に荷物を積み込んでいる。
毎年この時期、ご町内では見慣れた光景で、夏の風物詩みたいなもの。
家族4人分の荷物で、大きいワゴン車の荷室はすでに満杯になっていた。


今年もキャンプに行くんだね と声をかけた。


ダンナが、あちこち寄りながら丸瀬布がメイン だと話し、
さらに小さな声で囁くように 娘(高校生)が乗り気じゃなくて・・・ と付け加えた。
様子をうかがうと確かに、姉は少々ムスッとした感じで弟(中学生)はテキパキ荷物を運んでいた。


「お隣も来年の今頃は、夏休みの過ごし方が変わりそうだな・・・」 ふと思った。


ワタクシのご町内は古い付き合いで仲が良く、暇潰しに、おじさんやおばさんがぞろぞろ出てくる。
お茶やら何やらを差し入れしたりして、ワタクシも塩アメを差し入れしたりして。
恐縮する奥さんが車に乗り込み、ご町内の盛大な見送りをうけ一家は出発したのであった。


ワタクシは こりゃお土産が大変だな・・・ などと余計な心配をしてしまった。





ご近所に静けさが戻った頃、
ワタクシは遠い昔の、ある夏の日のことを思い出していた。
長女がまだ小学校の低学年だった頃の思い出。







その年の夏は家人と休みが合わず、一家で遠出が叶わなかった。
そんな娘が可哀想だからと、ワタクシと二人でプチ旅行を計画した。
車を使わず汽車とバスを乗り継いで、道東を一周してこようというもの。。





うろ覚えだけど、娘と一緒に立てた計画はこうだった。


朝早く釧路駅から、釧網線の各駅停車に乗る。
釧路駅では駅弁を買い汽車の中でそれを朝食にする。





弟子屈で降りてぶらぶら散策して、
ソフトを食べ「大鵬せんべい」をお土産に買う。
弟子屈のバスセンターから定期観光バスに乗り阿寒湖に向かう。



阿寒湖に着いたら食堂を探し、
昼食にカツ丼を食べソフトも食べる。
ぶらぶらお土産屋さんを廻り「まりも羊羹」をお土産に買う。



阿寒湖のバスセンターで釧路行きのバスを調べ、
それに乗って釧路へ帰る。
釧路到着は4時頃の予定だったと思う。


そんなことを二人で相談し、娘はしっかりとノートに書き留めた。
絵日記を書いて学校に持っていくらしかった。
出発までの数日間は、待ち遠しくてたまらない様子だった。





夏晴れの日、リュックを背負い水筒をぶら下げて汽車に乗った。
リュックには、家人が万一を考えこしらえたおにぎりやオヤツが入っている。
切符を買うのも釧網線の乗り場を確認するのも全部娘がやった。


駅弁を食べながらどんな会話をしたかは覚えていないけれど、
自分でいろいろ出来ることが、どこか得意気で誇らしそうな娘の顔があった。
弟子屈に着き 大鵬せんべい も買い阿寒湖行きのバスをチェックした。






1時間ほどの待ち時間を、
ソフトを食べたりぶらぶらしたりして過ごした。
娘はここでも大はしゃぎだった。





今もあるのか分からないが、当時は摩周湖や弟子屈と阿寒湖を結ぶ定期観光バスがあった。
そのバスに、十数名の観光客と共に娘とワタクシも乗り込んだ。
今よりもかなり険しい山道の、難所と言われた阿寒横断道路を越えるのだ。






山道に入る前は、青々とした牧草地や白樺林がある平坦な道。
当時エアコンは付いていないから窓を全開にしてバスは走り、
娘は窓から顔を突き出し遊園地気分で、吹き付ける風に髪をなびかせていた。



突然娘が ああっ! と悲鳴のような声を上げた。






ずうっと大事に抱えていた夏休みノートが窓から飛ばされてしまったのだった。
同じ側に座っていたお客さんの何人かがそれを見ていて少し車内がざわついた。
娘は首を思いっきり伸ばし呆然と後ろを見つめ、その目には涙をためていた。


ワタクシは娘の頭をさすりながら、ただ慰めるだけだった。
女性のお客さんたちもやって来て一緒に慰めてくれた。
そのうち娘はしゃくりあげながら大粒の涙をぼろぼろ落とし始めた。


運転手さんがこの様子に気づき「どうしました?」と聞いてきた。
娘が窓からノートを飛ばしてしまったと答えると、なんとバスを止めてくれた。
そしてその運転手さんは乗客に「すみません、ちょっとバックします」と言った。


まさか・・・


バスは100mくらいバックして止まった。
「この辺でしょうかね」今思うと、なんてのどかな時代だろうか。
それどころかお客さんも全員降りて道路脇の草むらを探してくれた。


うれしくて、申し訳なくて、ワタクシも娘と一緒に泣きたくなった。


でも見つけることができず、ワタクシは頃合を見て「もう出発してください」とお願いした。
再びバスは走り出し、お客さんが次々に娘のところへ来て、
お菓子やジュースをくれ、慰めたり励ましたりしてくれた。





やがて娘は落ち着きを取り戻したようだった。
双湖台から見える景色には興味を示さず、急カーブの連続でキャッキャとはしゃいでいた。
阿寒湖に着いた頃には笑顔が戻っていた。


バスから降りるときには皆さんが口々に声を掛けてくれた。
娘もワタクシもお礼を言い別れた。
運転手さんが「弟子屈に戻ったらもう一度探してみます」と言ってくれた。






阿寒湖では計画通りカツ丼を食べた。
娘は半分も食べることができず、「よし、お父さんに任せとけ」とここで唯一存在感を示した。
釧路行きのバス時間を調べ、ソフトを食べ まりも羊羹 も買った。






帰りのバスで娘は、ワタクシの膝枕でぐっすり眠っていた。






今この記事を書きながら、順を追って懐かしいあの一日を振り返っている。
娘も幼かったがワタクシも若かった。
今でも運転手さんやバスに乗り合わせた方々の顔を思い出すことができる。


あの頃釣りは一番の趣味ではなかった。
夫婦で懸命に子育てに追われていた。
果たしていい父親だったのだろうか・・・そのへんは曖昧だ。





後日談


娘との二人旅から10日くらい経ったある日、
娘宛に大きめの封筒の郵便物が届いた。
差出人は 阿寒バス弟子屈営業所のMさん そう、あの運転手さん。


中には、露に濡れて少しくしゃくしゃになった夏休みノートと、
絵はがきセットと、記念スタンプ帳と手紙が入っていた。
娘は飛び上がって喜んだ。もちろんワタクシも。


手紙には、
「何度か探しに行きようやく見つけることができました。
また弟子屈に遊びにきてくださいね。」
と書かれていた。


娘とワタクシはすぐにお礼状を書き、菓子折りと一緒に送ったと思う。
その年の暮れには年賀状も出したはずだ。
年明けMさんからも年賀状が返ってきたと記憶している。





2月に入ったある日、1枚のハガキが届いた。
差出人はMさんのご家族からで、「病気で急死した」と書かれていた。
お元気な頃は、いつも娘のことを嬉しそうに話していたそうだ。





あの日娘は、幼いながらも、
人の優しさとか感謝の気持ちとか、出会いと別れとか、
とても大切なものを学んでいたと思う。


あれからすでに長い年月が経っているけど、
今思い出しても感謝の思いが溢れてくる。






そんな娘も今は遠くの街へ嫁いでいる。
そしてもうじき帰ってくる。
何を食わせてどんな話をしようかしら。





普段、釣りのお話以外は書かないようにしているつもりですが、
まして身内のお話などは・・・
今回はつい、思い出すまま書いてしまいました。


長文ご精読、ありがとうございます。

※掲載画像は全てイメージです






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